SSブログ
『教行信証』精読(その155) ブログトップ

みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて [『教行信証』精読(その155)]

(2)みな阿弥陀仏の大願業力に乗じて

 このことばで思い出されるのが曇鸞『論註』の文です。「覈求其本(かくぐごほん)釈」とよばれるところで、曇鸞は「それにしてもどうして念仏することですみやかに往生できるのか」と問い、それに対して「覈(まこと)に其の本を求むるに、阿弥陀如来を増上縁となす」と答えます。われらが念仏することで往生するのは間違いないが、しかしその本には阿弥陀如来の本願力がはたらいているのだということです。その根拠として48願から3つの願を取り上げるのですが(三願的証といいます)、その最初に第18願を上げ、この願がある以上、「仏願力によるがゆゑに、十念の念仏をもつてすなはち往生を得」ることは確かであると述べます。善導は曇鸞のこのことばを念頭に置いていたに違いありません、ここにおいてまったく同じ趣旨のことを述べています。
 本文のなかでは省略しましたが、親鸞は「(大願業力に)乗じて」のところで「乗の字、…駕なり、勝なり、登なり、守なり、覆なり」と註を加えています。これまでもありましたように、親鸞は大事な字句については字書に当たり、その音訓を調べて、そこから思索を深めていこうとしますが、ここでは「乗」という字に着目して、「駕」「勝」「登」「守」「覆」の訓を上げているのです。さて、これらは総じて乗る側が乗られるものの上に立ち、コントロールするというニュアンスですが、大願業力に乗じるというときはそれが逆転して、大願業力の方が乗るわれらを操り、コントロールしているというイメージではないでしょうか。
 大願業力という乗り物は、しばしば大きな船に譬えられますが(「難度海を度する大船」)、この船はわれらが操ることができるようなものではなく、如来すなわち宇宙の法に操られています。われらはその大船の上にあって運ばれながら、それにまったく気づくことなく、みずからの意思でおのが人生を切り拓いていると思い込んでいるのです。ところが、あるときふと目が覚めて、そうか、すべては如来の大船の上のことであったか、と思い当たる。これが「大願業力に乗じて」ということです。われらが大願業力という乗り物を操るのではありません、大願業力がわれらを操っていることにふと気づくのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読(その155) ブログトップ