SSブログ
『教行信証』精読(その156) ブログトップ

すなはちこれ其の行なり [『教行信証』精読(その156)]

(3)すなはちこれ其の行なり

 さて二つ目の文、「またいはく、南無といふは云々」が六字釈とよばれる有名な箇所ですが、これは「玄義分」の後半において、摂論家(無着の『摂大乗論』に依る学派)のいわゆる別時意説を取り上げ、それに答えるなかに出てくるものです。別時意説といいますのは、すでに道綽のところで触れましたように、『観経』に五逆・十悪の罪人も十念の念仏で往生できると説かれているのは方便の説であり、遠い将来(別時)のことをあたかもすぐに往生できるように説いているだけとするものでした。道綽はそれに対して、今生では五逆・十悪の罪を重ねてきたとしても、それに先立つ世において善業を積んでいるから臨終の十念でただちに往生できるのだと答えていました(第10回、5)。これはしかし反論としていかにも弱いと言わなければなりません。
 一方、善導は別時意説の本質が「念仏というのは、ただ願いだけがあって行がともなわないから(唯願無行)、往生できるはずがない」という批判であると捉え、それに対して南無阿弥陀仏と称えるのは、ただ願だけではなく行も伴っていると反論しているのです。たしかに「南無」は帰命であり発願だけれども、「阿弥陀仏」が行だから、唯願無行ではなく、願も行もそろっていて、したがってかならず往生できるというのです。さて「南無」が発願であることはいいとして、「阿弥陀仏」が行であるというのはどういうことか、これがピンときません。
 先回りになりますが、親鸞はこの少し後で、善導の六字釈にさらに字訓釈を加えながら、独自の解釈を打ち出していますので、それを参照したいと思います。親鸞はこう言うのです、「即是其行(すなはちこれ其の行なり)といふは、すなはち選択本願これなり」と。善導が「阿弥陀仏が行である」と言っていたのを、親鸞は「選択本願が行である」と言い直しているのです。さあしかし、こう言い直されてもストンと肚に落ちるというわけにはいきません。弥陀の本願が行であるとはどういうことか、その意味するところを考え続けたいと思います。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
『教行信証』精読(その156) ブログトップ