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選択本願という行 [『教行信証』精読(その157)]

(4)選択本願という行

 ぼくらは「行」と聞きますと、当然ぼくらが何かをすることであると思います。それ以外にどんな行があるのかと思います。ですから、願だけで行がないという批判は実にもっともで、ただ願うだけで何もしないのでは、願いがかなえられるわけがないと思う。願うだけでそれがかなうなどというのは夢のまた夢と言わねばなりません。さてしかしこの常識は、ぼくらが「ほとけのいのち」という大きな船の上にあることに気づいていないという前提のもとで成り立っています。ぼくらは「わたしのいのち」を自分の力で一生懸命操っていると思っており、その「わたしのいのち」が「ほとけのいのち」というとんでもなく大きな船の上にあるなどと思いもしません。
 ところがあるとき途方もなく大きな船に乗っていることに気づくのです。前に何万トンという巨大なクルーズ船に乗ったときのことをお話しましたが(第9回、10)、船があまりに大きいと自分が船に乗っていると感じられません。普通に街中で生活しているような感覚です。ところがふとした拍子に、船がかなりのスピードで動いていることに気づく。それはたとえば、自分のキャビンに戻り、小さな窓から海原を見るようなときです。それと同じように、ひたすら「わたしのいのち」を生きていると思っていたのに、それは「ほとけのいのち」の上でのことなのだと気づくことがあるのです。
 行といえば「わたしの行」しかないと思っていたのに、「わたしの行」は実は「ほとけのいのち」の上でなされているのであり、それは「ほとけの行」に他ならないことに気づくのです。親鸞が「即是其行といふは、すなはち選択本願これなり」というのはこのことです。選択本願とは「ほとけの願」であり、「ほとけの行」です。「わたしの願」も、「わたしの行」も、その実、みな「ほとけの願」、「ほとけの行」であるということです。南無阿弥陀仏と称えるのは「わたし」に違いありません。しかし、実のところそれは「ほとけの願」、「ほとけの行」であるのです。

タグ:親鸞を読む
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