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命終らんとする時 [『教行信証』精読(その159)]

(6)命終らんとする時?

 一つ目の文ですが、善導が摂生増上縁(念仏の衆生を摂取し往生させる縁)を示すものとして真っ先に上げているのが第18願で、善導流に読み替えた形で表されています。前の『往生礼讃』の加減の文とほぼ同じで、至心信楽が省略され、乃至十念の部分がより詳しくふくらまされていますが、それはいいとしまして、やはり気になるのがそれに続く一句「命終らんとする時、願力摂して往生を得しむ」です。
 このことばから分かりますのは、善導は『観経』を下敷きとして『大経』を読んでいるということです。といいますのも、『観経』では一貫して往生を臨終のときとしていますが、それに対して『大経』では第18願成就文として「あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと乃至一念せん。至心に回向したまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住す」(「信巻」の読み)とあるからです。
 この文を素直に読みますと、弥陀の名号が聞こえて信心歓喜し、浄土に往生したいと思う、そのときに(「すなはち」)往生できるとしか理解できないのですが、善導は「命終らんとする時、願力摂して往生を得しむ」と言います。こんなふうになるのは『観経』を下敷きとして『大経』を読んでいるからとしか考えられません。『観経』の「臨終のときに往生」というコンセプトを抱きしめながらこの文を読みますから、「命終らんとする時」になってしまうのです。
 先の「玄義分」のことば、「阿弥陀仏の大願業力に乗じて」を手がかりに、「すなはち」と「命終らんとする時」について思いを潜めてみましょう。
 「大願業力に乗じて」と言うとき、これまで願船に乗っていなかった人が、このたび乗せていただくこととなったと理解できます。それが「乗る」ということばの普通のつかい方でしょう。しかし「大願業力に乗じて」は、こんなふうに理解することもできます。もうとうのむかしから願船に乗っていたのだが、これまではそのことにまったく気づかないままだった。ところがあるときそれにふと気づいた、と。願船の上にいると気づいてはじめて願船の上にいることになりますから、そのことをもって「願船に乗る」と言ってもおかしくはありません。

タグ:親鸞を読む
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