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『教行信証』精読(その163) ブログトップ

本文3 [『教行信証』精読(その163)]

(10)本文3

 善導からの引用の最後は『般舟讃』の文です。

 またいはく、「門々不同にして八万四(八万四千の法門)なり。無明と果(生死の苦果)と業因とを滅せんための利剣は、すなはちこれ弥陀の号(みな)なり。一声称念するに罪みな除(のぞ)こると。微塵の故業(こごう、これまで積み重ねた業)と随智と滅す1。覚(おし)へざるに真如の門に転入す2。娑婆長劫(じょうごう)の難(長きにわたる娑婆の苦しみ)を免るることを得ることは、ことに知識釈迦の恩を蒙(かぶ)れり。種々の思量巧方便(しりょうぎょうほうべん、思慮巧みな手立て)をもつて、選びて弥陀弘誓の門を得しめたまへり」と。以上、抄要。
 注1 普通は「微塵の故業、智に随ひて滅す」と読みます。
 注2 これも普通は「不覚転じて真如の門に入る」ですが、親鸞は覚に教の意味があるとして、「おしへざるに」と読みます。

 (現代語訳) また『般舟讃』にこうあります。釈迦の法門は八万四千もありますが、無明と苦果とその業因をのぞく利剣は弥陀の名号に過ぎるものはありません。一声称えるだけ罪はみな消えます。過去のあらゆる罪業は名号がもたらす智によって消え、教えられなくても自然に真理の門に入ることができるのです。長きにわたるこの娑婆の苦しみから逃れられたのは、とりわけ釈迦如来のお蔭です。さまざまな手立てをもちいて、弥陀の本願という選ばれた門をくぐらせてくださいました。

 親鸞は『般舟讃』から三つの偈文を取り出して一つにつなげています。「罪みなのぞこる」までと、「真如の門に転入す」まで、そして「娑婆長劫の難を」以下との3文です。ここでは「真如の門」(「弘誓の門」と同じです)ということば、そして「おしへざるに」転入すという表現が印象に残ります。注に書きましたように、親鸞は「不覚転入真如門」という原文を普通に「不覚転じて真如の門に入る」と読むことなく、あえて「おしへざるに真如の門に転入す」と読んでいるのです。真如の門は教えることができないということですが、そのことに思いを潜めてみましょう。

タグ:親鸞を読む
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