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知識釈迦の恩を蒙れり [『教行信証』精読(その165)]

(12)知識釈迦の恩をかうぶれり

 さて次に釈迦の証言を聞かせてもらうわれらはどうか。「ほら、虹が」でしたら、その指のさす方を見るだけで同じ経験をすることができますが、釈迦の証言を聞かせてもらうだけで、釈迦の目覚めをわれらも経験するというわけにはいきません。証言を聞かせてもらうことと、証言されている目覚めを経験することはまったく別です(龍樹の「指月の譬え」はそのことを言っています)。でも、釈迦が弥陀の本願ということばで語ってくれた目覚めは、そのことばを通じてしか経験することができません。目覚めることは「これが目覚めだ」と聞かせてもらうこととは別ですが、「これが目覚めだ」と聞かせてもらうことでしか目覚めに至ることができないのです。
 眠りから覚めることを考えてみましょう。眠りのなかにある人は、自分が眠っているとは思っていませんから、自分から目覚めようと思って目覚めることはできません(「さあもう起きなくちゃ」と思って起きるときは、もうすでになかば以上目覚めています)。どこかから「目覚めよ」という促しがあってはじめて目覚めることができます。誰かから「起きなさい」と言われて目覚めることもありますし、そうでなくても身体の中からそういう促しがあるから目覚めるのです。弥陀の本願の目覚めも同じで、本願に目覚めていない人は、自分が目覚めていないとも思っていませんから、自分で目覚めようと思うことはありません。どこかから「目覚めよ」という促しがあってはじめて目覚めに至ることができるのです。
 釈迦の「これが目覚めだ」という証言は、われらにとって「目覚めよ」という促しに他なりません。そう促されたからといって、ただちに目覚めることができるわけではありませんが、でもその促しがなければわれらはいつまでも目覚めに至ることができません。善導がここで「娑婆長劫の難を免るることを得ることは、ことに知識釈迦の恩を蒙れり」と述べているのは、その恩の大きさを言っているのです。

タグ:親鸞を読む
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