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帰るということ [『教行信証』精読(その167)]

(14)帰るということ

 ここで親鸞は、南無阿弥陀仏の「南無」について、善導の「南無といふは、すなはちこれ帰命なり」ということばを手がかりとして、帰命の二字の意味するところをさまざまな書物にもとづいて明らかにしようとしています。かなり複雑で、さっと読むだけでは何を言っているのかよく分かりませんが(正直なところ、ぼくは長いあいだ細字の字訓釈の部分を面倒だと読み飛ばし、太字の結論部分だけで満足してきました)、繰り返し読むことでようやくその真意が伝わってきます。
 帰という文字を辞書で調べますと、女が嫁に行くというつくりで、そこから落ちつくべきところにおさまるという意味になったようですが、この帰という文字はそれだけで何かしみじみした味わいがあります。子どもは外で少しでも不安を覚えますと、すぐ「おうちに帰ろ」と訴えますが、これなどは落ちつくべきところに帰ることが人間にとっていかに本質的なことであるかを教えてくれます。また教師としての自信を喪失し、魂が宙を彷徨うような日々を過ごしていた頃、夕空に鳥たちが塒をめざして一目散に帰っていく姿を見て、「あゝ、彼らは帰るべきところがあっていいなあ」とため息をついていたのを思い出します。
 親鸞はまず帰に「至る」という意味があるとし、至るべきところに至るのが帰であるとします。また『詩経』に「帰説」ということばが出てくることに注目し、それを「きえつ」と読むときと、「きさい」と読む場合があると教えてくれます。「きえつ」と読むときの「説」は「悦」であり、喜ぶことを意味します。帰ることは喜びであるということです。そう言えば、『論語』に「子曰く、学びて時にこれを習う、また説(よろこ)ばしからずや」とありました。そして「きさい」と読むときの「説」は「税(さい)」で、これは舎息の意味、つまり家の中でゆったりと寛ぐということだそうです。帰るというのは、家にもどり大の字になってゆっくりすることだというのです。
 このように見てきますと、帰るというのは、人が本来あるべきところにもどって、喜び寛ぐことであることがはっきりしてきます。

タグ:親鸞を読む
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