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命とは [『教行信証』精読(その168)]

(15)命とは

 親鸞は、「帰説」の「説」は「えつ(悦)」と読むときと「さい(税)」と読むときがあるとした上で、もちろん「せつ」とも読むわけで、そのときは「告げる」、「述べる」という意味だと言います。「告げ」「述べる」のは言うまでもなく弥陀であり、われらに「帰っておいで」と告げるということです。このあたりが親鸞流で、思いもかけない方向に展開していくのです。帰るべきところに帰るのはわれらですが、それに先立って弥陀から「帰っておいで」と「告げられて」いるのだというのです。
 そのことは次の「命」の字訓釈でいよいよはっきりしてきます。
 命という文字を辞書で調べてみますと、令(言いつける)と口とが合わさってできたもので、人に何かを申しつけるという意味だとあります。ぼくらは命という字をみますと、まっさきに「いのち」と読んでしまいますが、もともとの意味は「仰せ」「命令」であるということです。どうして「仰せ」の意味から「いのち」が出てきたのかという疑問に辞書は答えてくれませんが、とにかく命の原義は「申しつける」であるということから、先の「告げる」「述べる」とつながってきます。
 さて親鸞は命の字訓として、業、招引、使、教、道、信、計、召の八つを上げます。それぞれの意味は現代語訳のなかで示しましたから繰り返しませんが、いずれも弥陀の側からわれらに対してさまざまな働きかけがなされていることを示しています。われらが弥陀を「よりたのみ」「よりかかる」には違いありませんが、それができるのも、弥陀からわれらに「よりたのめ」「よりかかれ」と呼びかけられ、招かれているからであることを明らかにしているのです。
 かくして「帰命は本願招喚の勅命なり」と結論づけられます。
 勅命などと言われますと、われらにとって辛いことを申しつけられ、命じられるように思ってしまいますが、向こうからの呼びかけは「帰っておいで」であることを考えますと、命じられると言うより願われていると言うべきでしょう。「本願招喚」とはそういうことです。われらが「帰りたい」と願うには違いありませんが、それより前に(本願―プールヴァ・プラニダーナの「プールヴァ」は「前」という意味です)「帰っておいで」と願われているのです。

タグ:親鸞を読む
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