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『教行信証』精読(その169) ブログトップ

本文5 [『教行信証』精読(その169)]

(16)本文5

 本文4につづく文です。

 「発願回向」といふは、如来すでに発願して衆生の行を回施(えせ、与える)したまふの心なり。「即是其行」といふは、すなはち選択本願これなり。「必得往生」といふは、不退の位に至ることを獲ることを彰(あらわ)すなり。『経』(大経)には「即得」といへり。釈(龍樹の『十住毘婆沙論』)には「必定」といへり。「即」の言は願力を聞くによりて報土の真因決定する時剋の極促(時間の極まり)を光闡(こうせん、明らかにする)するなり。「必」の言は、審(つまびらか)なり、然(しからしむる)なり、分極(わかちきわむる)なり。金剛心成就の貌(かおばせ)なり。

 (現代語訳) 善導大士が「南無とはまた発願回向である」と言われるのは、如来がわれらに先立ってわれらの往生を発願し、そのための行として名号を用意してくださったということです。「阿弥陀仏がすなわちその行である」と言われるのは、弥陀の選択本願が往生の行であるということです。「だから必ず往生をえる」と言われるのは、仏になることが決まった不退の位につくということで、それが『大経』では「即得往生(すなはち往生をう)」と言われ、龍樹菩薩の「易行品」には「即入必定(すなはち必定にいる)」と言われています。この即といいますのは、本願力に遇うことができたそのときに浄土への往生が決定するという、ときの極まりを表しています。また必とは「そうなることが審らかである」ということ、「そうなるように然らしめられている」ということ、また「その境界が明らかである」ということを意味します。すなわち金剛のような信心が生まれる相をあらわしているのです。

 あらためて『観経疏』「玄義分」の六字釈を上げておきましょう。「南無といふは、すなはちこれ帰命なり。またこれ発願回向の義なり。阿弥陀仏といふは、すなはちこれその行なり(即是其行)。この義をもてのゆへに、かならず往生をう(必得往生)」。親鸞は本文4で「帰命」について字訓釈を施したあと、ここで「発願回向」と「即是其行」と「必得往生」について、その深い意味を明らかにしようとしています。

タグ:親鸞を読む
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