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如来すでに発願して [『教行信証』精読(その170)]

(17)如来すでに発願して

 善導が「南無といふは、すなはちこれ帰命なり。またこれ発願回向の義なり」と言うとき、帰命するのも発願回向するのも「われら」であることは疑いありません。
 われらが弥陀を信じ(帰命するとは信じることに他なりません)、往生を願うのであるのはまったくもって当然のこととされています。摂論家の人たちが念仏の教えは「願だけで行がない」と批判するのに対して、善導は、たしかに「南無」は願に違いない(しかしだからと言って行がないわけではない)と受けているのです。
 ところが親鸞は、南無とはわれらが弥陀に帰命するということではなく、弥陀がわれらに帰命せよと呼びかけているのだと喝破したのでした。そしてここでは、発願回向についても同じように、われらが弥陀に発願回向するのではなく、弥陀がわれらに発願回向してくださっているのだと言うのです。
 弥陀の本願とは、われらが往生を願うより前に、弥陀がわれらの往生を願ってくださっているということです。言ってみれば、われらがこの世に現れるよりはるか前から、「いのちみな生きらるべし」という大いなる願いがかけられており、釈迦はその願いを傍受して、それを弥陀の本願ということばで語り出してくれたのです。それが「如来すでに発願して」ということです。
 「すでに」と言いますのは「十劫のむかしに」ということ、すなわち「久遠のむかしから」ということです。そして如来の発願(いのちの大いなる願い)があるだけではなく、さらに、その願いをわれらに届けるための方策も同時に与えられていると言うのです。それが「衆生の行を廻施したまふ」ということです。
 願いは誰かにかけられるだけでは力にならない、それが相手に届かなければなりません。遠く離れたところで暮らすわが子に「帰っておいで」と願っても、それが声となってわが子に届かなければ空しい。そのように、ただ弥陀の本願があるだけでは力になりません、それが生きとし生けるものたちに届けられなければならない。南無阿弥陀仏はそのために用意されたのです。本願が与えられているだけではありません、名号も同時に与えられているのです。

タグ:親鸞を読む
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