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巻頭の和讃 [親鸞最晩年の和讃を読む(その1)]

                第1回 夢告讃

(1)巻頭の和讃

 みなさん、こんにちは。これから親鸞最晩年の和讃集『正像末和讃』を読んでまいりたいと思います。
 以前、『浄土和讃』と『高僧和讃』を読みました。この二つは宝治2年、親鸞76歳の時に作られましたが、『正像末和讃』は正嘉元年、親鸞85歳の時に一応の成立をみ(国宝に指定されている親鸞真筆の「草稿本」)、その後も手が入れられつづけました。それ以降の著作としては、弟子に宛てた手紙を除けば『尊号真像銘文』ぐらいしかなく、親鸞最晩年のもっとも円熟した信境を映し出していると言えます。『浄土和讃』と『高僧和讃』は、すべての和讃を隈なく読みましたが(その結果、急ぎ足にならざるを得ませんでしたが)、今回はとりわけ心に残る和讃に絞り、ゆっくりじっくり味わいたいと思います。
 ではさっそくその巻頭の和讃を読みましょう。

 弥陀の本願1信ずべし
  本願信ずるひとはみな
  摂取不捨の利益2にて
  無上覚3をばさとるなり

 注1 法蔵菩薩が五劫思惟したてた四十八願。とりわけ第十八願を言う。「たとひわれ仏を得たらんに、十方の衆生、心を至し信楽してわが国に生まれんと欲ひて、乃至十念せん。もし生れざれば、正覚を取らじと(若不生者、不取正覚)。ただ五逆と誹謗正法を除く」。要するに「あらゆる衆生が往生しなければ、わたしは仏とならない」という誓い。
 注2 『観経』に「(弥陀の)光明はあまねく十方世界を照らし、念仏の衆生を摂取して捨てたまはず(光明遍照十方世界、念仏衆生摂取不捨)」とあり、弥陀の光におさめ取られて、もはや捨てられない、ということで、親鸞はこれを正定聚の位(かならず仏となる位)とする。
 注3 この上ない仏のさとりのこと。菩提とも涅槃とも滅度とも言う。

タグ:親鸞を読む
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