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夢告讃 [親鸞最晩年の和讃を読む(その2)]

(2)夢告讃

 この和讃には「康元二歳(1257年、親鸞85歳)丁巳(ひのとのみ)二月九日夜寅時(とらのとき、午前4時頃)夢に告げていはく」という前書きがあります。「草稿本」では「この和讃をゆめにおほせをかふりてうれしさにかきつけまいらせたるなり」となっています。このことからこのうたは夢告讃とよばれるようになりました。これが「ゆめにおほせをかふりて」つくられたということは、このうたを味わうにあたって本質的に重要です。
 「ゆめのおほせをかふりてうれしさにかきつけまいらせたるなり」から分かりますのは、このうたは「弥陀の本願信ずべし」と親鸞がわれらに向かって呼びかけているのに違いありませんが、その前に親鸞自身が「ゆめのおほせ」にそのように呼びかけられているということです。ここに、向こうから呼びかけられ、それに応答することが、またこちらから誰かに向かって呼びかけることになるという構造をはっきり見て取ることができます。これは浄土の教えの根幹であると言ってもいいほど大事なことですので、立ち入って検討しましょう。
 まず弥陀の本願とは「呼びかけ」であるということ。
 本願とは「プールヴァ・プラニダーナ」の訳で、「前の(プールヴァ)願い(プラニダーナ)」という意味です。「前の」といいますのは、「阿弥陀仏がまだ阿弥陀仏となる前(因位)の法蔵菩薩であったときの」ということで、法蔵菩薩が「若不生者、不取正覚(あらゆる衆生が往生できなければ、わたしは仏にならない)」という誓願を立て、それが成就して阿弥陀仏となったということを意味します。さてしかしこの願いは、それが向けられている「あらゆる衆生」に届かなければ力になりません。親の願いは、それが子に届いてはじめて子の生きる力となるように、法蔵の願いも一切衆生に届いてはじめて一切衆生の生きる力になります。
 かくして本願は「あらゆる衆生が往生できなければ、わたしは仏にならない」という独語ではなく、「あらゆる衆生よ、みんなが往生できなければ、わたしも仏にならない」という呼びかけであることが明らかになります。

タグ:親鸞を読む
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