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第17願と第18願 [親鸞最晩年の和讃を読む(その3)]

(3)第17願と第18願

 どうして本願が呼びかけであると言えるのかは、四十八願そのもののなかにもその答えが隠されています。
 浄土の教えで本願と言えば第18願とされ、その他の願にはあまり目が向けられてきませんでしたが、親鸞は第18願と並んで第17願(※)に注目しました(法然をはじめ、七高僧の誰も第17願の重要性には言及していません)。いや、この両願は一体であると捉えたのが親鸞で、ここに親鸞の慧眼があると言わなければなりません。『大経』上巻に掲げられている四十八願を読む限りでは、第17願と第18願の繋がりは見えませんが(17願は「無量の諸仏」のことを言い、18願は「十方の衆生」のことを言いますから、まったく別のことを言っているという印象です)、下巻の冒頭まできまして、両者の関係が明らかになります。
 ※「たとひわれ仏を得たらんに、十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟(ししゃ、誉める)して、わが名を称せずは、正覚を取らじ」。
 その箇所を上げておきますと、「十方恒沙の諸仏如来は、みなともに無量寿仏の威神功徳の不可思議なるを讃嘆したまふ(これが第17願の成就文です)。あらゆる衆生、その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん(これが第18願の成就文)」とあり、「その名号を聞きて」という一句で、第17願と第18願はひとつにつながっているのです。すなわち、諸仏が弥陀の本願の素晴らしさをほめたたえて弥陀の名号を称え、その声があらゆる衆生に届いて、衆生の心に信心歓喜が生まれるということです。
 このように第17願と第18願は二つが合わさってはじめて完結するのであり、それぞれを独立したものと捉えていては、どちらもその意味することが不分明のままです。第17願を第18願とのつながりなしに、それだけ読みますと、どうして諸仏が弥陀の本願を讃えてその名を称えるのかが判然としませんし、第18願を第17願との連絡なしに読みますと、どうして衆生が弥陀の本願を至心信楽(心から信じる)できるのかがよく理解できないままです。

タグ:親鸞を読む
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