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南無阿弥陀仏のリレー [親鸞最晩年の和讃を読む(その4)]

(4)南無阿弥陀仏のリレー

 弥陀の本願とは呼びかけに他ならないことを見てきました。諸仏から呼びかけられ(これが第17願です)、それを衆生が信受し応答する(これが第18願です)ということです。
 次に見ておかなければならないのは、われらが本願の呼びかけに応答することが、そのまま、また呼びかけになるということです(第18願はまた第17願につながるのです)。このうたで言いますと、親鸞が「ゆめのおほせ」によびかけられ、それに応答することが、そのまままた呼びかけになるのです。「弥陀の本願信ずべし」と呼びかけられ、それに応答することが、そのまま「弥陀の本願信ずべし」と呼びかけることになっている。「(ほとけのいのちに)帰っておいで」という呼びかけに、「はい、ただいま帰ります」と応答することが、また「帰っておいで」という呼びかけになるのです。
 呼びかけとそれへの応答の橋渡しの役割を担うのが名号、南無阿弥陀仏です。
 「若不生者、不取正覚(あらゆる衆生が往生しなければ、わたしは仏にならない)」が本願ですが、それが南無阿弥陀仏というかたちをとることで、「あらゆる衆生よ」と呼びかける本願となります。南無阿弥陀仏とは「阿弥陀仏に南無(帰命)します」ということですから、われらが称えるものに違いありませんが、それはもともと「阿弥陀仏に帰命しなさい」という呼びかけであると教えてくれたのが親鸞です、それは「招喚の勅命」であると。その根拠となるのが第17願であり、南無阿弥陀仏を称えるのは「十方世界の無量の諸仏」です。諸仏が「十方の衆生」に「阿弥陀仏に帰命しなさい(ほとけのいのちに帰っておいで)」と呼びかけ、それに対してわれらが「阿弥陀仏に帰命します(はい、ただいま)」と応答する。
 南無阿弥陀仏と呼びかけられ、南無阿弥陀仏と応える。そして応えた南無阿弥陀仏がまた呼びかけとなり、かくして南無阿弥陀仏は次々とリレーされていくことになります。

タグ:親鸞を読む
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