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無上覚をさとる [親鸞最晩年の和讃を読む(その6)]

(6)無上覚をさとる

 本願を信ずるということ、すなわち「帰っておいで」という声が聞こえるということは、これまではただひたすら「わたしのいのち」を生きていると思っていたのに、ある日突然「ほとけのいのち」に遇うことができ、気がついたら「ほとけのいのち」に包みこまれていたということです。それは、言ってみれば、「わたしのいのち」という時間のなかに、「ほとけのいのち」という永遠がひょいとあらわれるということで、そのとき、「わたしのいのち」(時間のいのち)は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」(永遠のいのち)を生きていると気づかされるのです。
 これが第4句「無上覚をばさとるなり」ということでしょう。
 注にも書きましたように、無上覚とは仏のさとりであり、それは菩提とも涅槃とも滅度とも言われるもので、われら凡夫の境界ではないと言わなければなりません。われらに許されているのは正定聚、すなわち「必ず無上覚を悟り仏になることができる位」までであり、今生において無上覚を悟ることはできません。なぜなら、われらはヤドカリのように「わたしのいのち」という殻を背負って生きていくしかないからです。ですからこの「無上覚をばさとるなり」というのは、より正確には「無上覚をばさとるべし」としなければなりません。
 しかし、何度も言いますように、本願を信ずるということは「ほとけのいのち」に遇うことで、すでに「ほとけのいのち」を生きていると気づいたということです。たしかに「わたしのいのち」の殻はかぶったままですから、まったき意味で「ほとけのいのち」になったわけではありませんが、でももう「ほとけのいのち」と「ひとしい」のではないでしょうか。おたまじゃくしは、「おたまじゃくしのいのち」のままで「蛙のいのち」を生きているのですから、もう「蛙のいのち」と「ひとしい」ように。
 そのように見ますと、「摂取不捨の利益にて、無上覚をばさとるなり」と言ってしまうのはきわめて自然であると言わなければなりません。

                (第1回 完)

タグ:親鸞を読む
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