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釈迦の遺弟悲泣せよ [親鸞最晩年の和讃を読む(その8)]

(2)如来の遺弟悲泣せよ

 さてこの和讃では「如来の遺弟悲泣せよ」と詠われますが、釈迦が亡くなられてどれほど時間が経とうと、釈迦が悟り伝えてくれた法(真理)が消えてしまうことはありません。人の生死は無常でも、仏法は常住であるはずですから。としますと、どうして釈迦の遺弟は悲泣しなければならないのか。もし末法の世となり、仏法そのものが消えてなくなるのだとしますと、これは仏弟子にとって生きる支えがなくなるということで、由々しきことと言わなければなりません。しかし仏法は常住で、たとえ末法の世であってもなくなるはずはありませんから、なぜ悲泣しなければならないのでしょうか。
 この問いに答えてくれるのが、次の和讃です。

 末法五濁(ごじょく)1の有情の
  行証かなはぬ2ときなれば
  釈迦の遺法ことごとく
  竜宮3にいりたまひにき(3)

 注1 劫濁(時代のけがれ)、見濁(思想のみだれ)、煩悩濁(煩悩が盛んになる)、衆生濁(衆生の質が落ち、十悪をほしいままにする)、命濁(衆生のいのちが短くなる)。
 注2 修行ができなくなり、さとりを得ることができなくなる。
 注3 左訓に「八大竜王の都なり」とある。

 末法五濁の世になっても、釈迦の遺法が消えてなくなることはありませんが(もし消えてなくなるのであれば、それは真理ではないということです)、竜宮に隠れてしまって姿が見えなくなってしまったというのです。だから悲泣しなければならないと。さてしかし仏法が竜宮に隠れてしまうとはどういうことか。それが「行証かなはぬ」ということで、仏法は釈迦の遺法としては存在しても(教はあっても)、誰も修行をしてそれをさとることができなくなった(行と証がなくなった)というのです。さてしかし、仏法はそれをさとる(気づく)ことではじめて存在し、さとらなければどこにも存在しないという特質があり、その点で普通の真理とは異なるのですが、そうとしますと、ここには非常に複雑で厄介な問題があります。じっくり腰を落ち着けて考えましょう。

タグ:親鸞を読む
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