SSブログ
親鸞最晩年の和讃を読む(その10) ブログトップ

ところが仏法は [親鸞最晩年の和讃を読む(その10)]

(4)ところが仏法は

 ところが仏法は(というより、宗教的真理はというべきでしょうか)、誰かがそれを覚って(気づいて)はじめて存在し、もしそれを覚らなければどこにも存在しません。つまり仏法はどこかに客観的なものとして存在し、誰でもその気になればそれにアクセスできるようなものではないということです。ある特定の誰かが、それを覚って(それに気づかされて)はじめてその人にとって存在するようになるのであり、その意味で徹頭徹尾、主観的な存在です。
 客観的な真理に対して主観的な真理ということ。
 ここで当然疑問の声が出るでしょう。真理というのは客観的であってこそ真理であり、それが主観的であるということは真理ではないということではないか、と。主観的な真理ということば自体が概念矛盾だということです。もし誰かが、これはわたしにとって紛れもなく真理ですが、他の人たちにとって真理であるかどうかはわたしの知ったことではありません、と言うとすれば、世の大半の人は、あなたがそう思うのは勝手ですが、それを真理ということばで呼ぶのはことばの使い方として誤っています、と答えることでしょう。
 このように、真理は客観的でなければならないというのは当たり前のこととして流布していますが、しかしこの真理観は真理をあまりに狭く限定してしまわないでしょうか。われらが生きていく上で客観的な真理が不可欠であるのは言うまでもありませんが(学問は日々そのような真理を求めて営まれています)、でも、ある意味で、われらは「わたしにとっての真理」をもっと切実に求めているとも言えます。「人はパンのみにて生くるにあらず」です。人は客観的真理のみにて生きているのではなく、「わたしがそれによって生き、それによって死ぬことができるような真理」(キルケゴール)を求めています。
 「弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり」(『歎異抄』後序)ということばは、そのあたりの消息をみごとに言い表しています。しかし「親鸞一人がため」の真理とは何か。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞最晩年の和讃を読む(その10) ブログトップ