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ゲットされる真理 [親鸞最晩年の和讃を読む(その11)]

(5)ゲットされる真理

 和讃からは離れますが、客観的真理と主観的真理について、もう少し考えつづけたいと思います。
 客観的真理は、その真理性を客観的に証明できなければ真理として認定してもらえません。この証明という不可欠の手続きにこの真理の特徴がありますが、この手続きはわれらがその真理性をゲットしなければならないということを意味します。ピタゴラスの定理でいいますと、「直角三角形の斜辺の長さの2乗は、他の2辺の2乗の和に等しい」ことを発見するだけでは真理とは言えません。多くの直角三角形を書き、それぞれの辺の長さを測って、そうなっていると主張するだけではダメということです。それを証明しなければならない。いまここで実際に証明することはできませんが、とにかくその手続きを経てはじめて真理として認定されます。
 この真理は、われらがそれをゲットするものであるということです。
 それに対して「親鸞一人がため」の真理、主観的真理は、こちらからゲットするものではありません。逆です、その真理にわれらがゲットされるのです。金子大栄氏は若い頃、浄土真宗を世に弘めるためには、それが真理であることを理性的に証明しなければならないと考えたそうです。それが自分に与えられた使命であると思った。ところがその作業を進める過程で、それがとんでもない勘違いであることに気づいたと言います。自分が浄土真宗の真理性を証明するなどというのは倒錯もいいところで、浄土真宗が自分の真理性を証明してくれているのだと気づいた。
 自分が本願をゲットするのではなく、本願が自分をゲットするのです。そして、本願にゲットされることで、はじめてほんとうに生きることができる、これが本願が自分にとっての真理であるということです。
 さて、話を本筋に戻しまして、仏法が主観的真理(わたしにとっての真理)であるということは、それが誰かに覚られて(気づかれて)はじめて存在するということです。誰かがその真理にゲットされて、それははじめて姿をあらわすのです。ところが、この和讃は、末法の世とは「行証かなはぬとき」であり、「釈迦の遺法ことごとく、竜宮にいりたまひにき」と詠います。もはや誰もそれを覚ることができなくなるというのですが、としますと仏法はもはやどこにも存在しなくなったということになります。

タグ:親鸞を読む
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