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自力と他力 [親鸞最晩年の和讃を読む(その14)]

(8)自力と他力

 仏教と聞いて誰もが思い浮べるもっとも代表的な教説と言えば、やはり「無我」ではないでしょうか。ですから、もしも浄土門において無我の教説が否定されたり無視されたりするのでしたら、浄土門はもはや聖道門と同席することはできませんし、もう仏教と呼ぶことはできないでしょう。大乗非仏説ならぬ、浄土非仏説と言うべきです。しかし実際はどうか。浄土門が無我を否定しているなどというのは、浄土門をはなはだしく誤解していると言わざるをえません。浄土門が分かっていないということです。
 浄土門は、聖道門が無我ということばで表現していることを、別のことばをもちいて説こうとしているのです。
 「聖道門と浄土門」のおおもとは龍樹の「難行道と易行道」でした。山頂を目指すのに尾根道と沢路があるように、同じ目的地に至るのに困難な道と安易な道があるのであり、どちらの道をとっても結局は無我という真理に到りつくのです。ではどうして聖道門は困難な道であり、浄土門は安易な道なのでしょう。曇鸞はそれを自力と他力というコントラストで説明してくれました、自力で悟りを得るのは困難だが、他力で悟りに至るのは易しいと。これは分かりやすい説明ですが、ただ自力と他力ということばはよくよく注意しないと思わぬ落とし穴にはまる危険があります。
 日常語としての自力・他力と曇鸞が言う自力・他力との間には微妙ですが決定的な違いがあるのです。
 日常語としての自力は何かを「自分の力でする」ということで、他力は「人の力を借りてする」ということであり、いずれにしても自分が自分のためにするのです。ところが仏教語としての自力はわれらが「自分のためにする」ことで、他力は如来が「われらのためにしてくれる」ことです。自力とはわれらの「自利の力」という意味で、他力は如来の「利他の力」という意味です。したがって日常語としての自力と他力は、仏教語としてはどちらも自力であり、よく「他力本願ではダメ」というのは、自分のために何かをするのに、人の力をあてにしているようではダメという意味で言っているにすぎません。

タグ:親鸞を読む
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