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自力で無我を悟るのは不可 [親鸞最晩年の和讃を読む(その15)]

(9)自力で無我を悟るのは不可

 以上のことからはっきりしましたのは、聖道門において自力で悟りを得るというのは、われらが自分のために自分の力で悟りを得ようと努力するということであり、一方、浄土門において他力で悟りに至るというのは、如来の本願他力がわれらのためにわれらを悟りに至らせてくれるということです。それをうっかり、浄土門は自力によってではなく本願他力を借りて悟りに至ろうとするとしてしまいますと、日常語の他力にからめとられて、仏教語としての他力を見失っていると言わざるをえません。
 で、なぜ自力聖道門は困難で、他力浄土門は易しいのか。
 くどいようですが、これは、自力で悟りを得るのが困難で、本願他力を借りて悟りを得るのは易しい、ということではありません。それではどちらも自分で自分のために悟りを得るのであり、ただ得る方法が違うだけのことです。自力で得るか他力で得るか、ではなく、自力で得るか他力により与えられるか、の違いです。そして、他力により与えられると言っても、与えてほしいと頼んで与えられるのではありません(それでは本質的には自力で得るのと変わりません)、思わず知らずに与えられている、これが他力です。ここまできまして、自力聖道門は困難で、他力浄土門は易しいと言われるほんとうの意味がようやく明らかになります。
 自力聖道門は困難というよりも、不可能というべきであり、それが不可能だと気づいたところに開けるのが他力浄土門であるということです。
 ここでもう一度思い出しておきたいのが、仏法はこちらからゲットする客観的真理ではなく、思いがけずゲットされる主観的真理であるということです(5)。われらが無我の真理をゲットするのではなく、無我の真理がわれらをゲットし、われらは気がついたときにはその真理によって救われているのです。としますと、自力で無我を悟ろうとする自力聖道門とはいったい何でしょう。こちらからゲットするのではなく、むこうからゲットされる真理を自力で悟ろうとするというのは、端から無理なことを成し遂げようとすることです。己の影を踏もうと必死で追いかけるようなもので、どれだけ追いかけても影を踏むことはできません。

タグ:親鸞を読む
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