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囚われの気づき [親鸞最晩年の和讃を読む(その16)]

(10)囚われの気づき

 ぼくらは救いを得るとは言わず、「救われる」と受動で言います。他のあらゆるものは、こちらから得ようとして得るものでしょうが、救いだけは、向こうから思いがけず与えられるしかありません、つまり救われるしかありません。なぜか。釈迦が教えてくれたように、われらのあらゆる苦のもとは「わがもの」への囚われ(我執です)にありますから、われらにとって救いとは我執から抜け出すことに他なりません。さて、われらはこの我執から自分で抜け出すことはできるでしょうか。我執から自分で抜け出そうとすることは、「わがもの」への囚われからの解放(これが無我です)を「わがもの」としようとすることです。これほどひどい倒錯はありません。
 では救いはどのようにして与えられるのでしょうか。どのようにして「わがもの」への囚われから解放されるのでしょう。それは、「わがもの」に囚われているという事実に気づかせるというかたちで与えられます。こころが何かに囚われているときを考えてみてください。そのとき、ぼくらは囚われているとは思っていません。囚われているとは思っていないことが囚われている証拠です。そして、あゝ、囚われているんだ、と思ったときには、もう囚われから解放されています。そこから分かるのは、自分で「わがもの」への囚われに気づくことはないということです。囚われているとは思っていないのですから、自分で囚われに気づこうとするはずがありません。
 かくして囚われへの気づきは外から与えられるしかないということになります。これが救いは思いがけず与えられるということです。
 自力聖道門は無我という真理をみずから悟ろうとしますが、その過程で、無我をこちらからゲットすることの不可能性に気づくときがあるはずです。それがいかに倒錯しているかに気づくとき、そのことが取りも直さず無我にゲットされたことです。これまで無我をゲットしようとしていたが、それはとんでもない倒錯だと気づく。そのとき無我にゲットされているのです。無我とは、他でもない、「わがもの」に囚われていることに気づくことだとはっきり思い知らされるのです。他力浄土門はそれを本願他力ということばで語っているのですから、自力聖道門の真理は他力浄土門であるということになります。

                (第2回 完)

タグ:親鸞を読む
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