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浄土の大菩提心 [親鸞最晩年の和讃を読む(その17)]

            第3回 願作仏心と度衆生心

(1)浄土の大菩提心
 
 像末五濁の世では釈迦の遺教、すなわち自力聖道の教えは竜宮に隠れ、本願他力の教えが盛んとなると詠われてきましたが、ではそれはどのような教えなのか。次の和讃を読みましょう。

 浄土の大菩提心は
  願作仏心をすすめしむ
  すなはち願作仏心を
  度衆生心2となづけたり(20)

 注1 左訓に「他力の菩提心なり。極楽に生れて仏にならんと願へとすすめたまへるこころなり」とあり、さらに願作仏心について「弥陀の悲願をふかく信じて仏にならんとねがふこころを菩提心とまうすなり」とある。
 注2 左訓に「よろづの有情を仏になさんとおもふこころなりとしるべし」とある。

 菩提心ときますと、やはり頭に浮ぶのが明恵の『摧邪輪(さいじゃりん)』です。明恵は親鸞と同い年の華厳宗の僧で、もともとは法然を高徳の僧として敬っていましたが、『選択集』を一読するや、これは邪教であると激しく攻撃したのでした。それが『摧邪輪』という論難の書ですが、そのなかでとりわけ彼が問題としたのは、法然が菩提心を撥去(はっきょ)しているということでした。菩提心とは菩提すなわち悟りの智慧を得ようとする心であり、それを撥去してしまってはもはや仏教ではなくなるというのです。
 法然は『選択集』において「念仏は易きが故に諸機に通ず。諸行は難きが故に諸機に通ぜず。しかれば則ち一切衆生をして平等に往生せしめむがために、難を捨て易を取りて、本願としたまふか」と述べ、菩提心を本願としては世の凡愚たちはそれに漏れてしまうから、念仏一行が選択されたのだと論じているのですが、明恵にはこれはとんでもない暴論と映るのです。ここには聖道門的な感覚と浄土門的な感覚のコントラストがはっきりあらわれています。明恵や、その同時代の人としては道元、そして日蓮といった聖道門の人たちにとって「日々これ仏道修行」であり、それなくして、ただ念仏して本願他力を頼むなどというのはもはや仏教徒とは言えないという感覚でしょう。

タグ:親鸞を読む
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