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自力の菩提心と他力の菩提心 [親鸞最晩年の和讃を読む(その18)]

(2)自力の菩提心と他力の菩提心

 親鸞の他力思想に対しては、しばしば次のような疑問が出されます。本願他力に遇うとか、本願他力に気づくと言いますが、それは何もしないで、ただじっと待つということでしょうか。本願他力に遇うためには、そのための準備といいますか、心構えといいますか、少なくともそういうことがわれらの側に必要なのではないでしょうか、と。これは自力と他力の関係を考える上でたいへん貴重な疑問だと思います。
 そもそもわれらが生きるということは、無意識でもない限り、つねに何かをしようとすることです。ただじっと待つと言っても、心はせわしなく動いています。いまの場合、生きる苦しさからの救いを切実に願い求めているのですから、どうすればその願いがかなえられるかを考えざるをえません。考えなくてもいいということは、切実に願っていないということです。そしてそれはもちろん自力です。こちらから救いを願い求めているのです。
 ところがその過程で、ある気づきが起るのです。自分がこのように救いを切実に願い求めているのは、実はそうするようはからわれているのだと。自分がはからっているのは間違いないが、それはそのようにはからわれ、そうせしめられているのだと。これが他力に遇うということ、他力の気づきです。自力と他力は、こちらに自力の世界、あちらに他力の世界というように別々にあるのではなく、自力のただ中に他力が姿を現すのです。
 さてこのうたの「浄土の大菩提心」ですが、「浄土の」は「聖道の」ではないことをあらわし、「大菩提心」で「われらの自力の菩提心」ではなく「如来回向の他力の菩提心」であることを示しています。見てきましたように、われらが自力の菩提心を起こすとしましても、それは実は如来がそのようにはからってくださっているのであり、もとはと言えば、如来の大菩提心であるということです。
 親鸞はこのように詠うことで、明恵が浄土の教えは菩提心を撥去していると批判していることに応答していると見ることができます。聖道門の菩提心の真理は浄土門の菩提心であると。

タグ:親鸞を読む
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