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法蔵の願い [親鸞最晩年の和讃を読む(その20)]

(4)法蔵の願い

 ここで考えなければならないのは、己が「仏にならん」と願うといい、「よろづの有情を仏になさん」と願うというとき、誰がそう願っているのか、ということです。何を言っているのか、という顔が浮びます、われらが願うのに決まっているではないか、と。しかし、ここで思い起こしたいのは、なるほどわれらが仏にならんと願い、よろづの有情を仏になさんと願うには違いないが、実はそれに先立って、そのように願うようはからわれていることに気づくということです。それが他力に遇うということ、他力に気づくということです。われらが願うのは、向こうから願われているからです。
 ではいったい誰がそのようにはからい、そのように願っているのか、という問いに対する答えが「法蔵菩薩の誓願」です。われらがはからい、われらが願うよりも、はるか昔に法蔵菩薩がはからい、願っていたのだと。それが「若不生者、不取正覚(もし生まれずば、正覚をとらじ)」(第18願)で、法蔵の「一切の有情が仏とならないうちは、わたしも仏となるまい」という誓願です。ただここで言わなければならないのは、法蔵菩薩が持ち出されるのは、あくまで「自然のやう(様)をしらせんれう(料)」(『末燈鈔』第5通)にすぎないということです。「自然のやう」とは「わがはからいにあらず」ということで、法蔵菩薩はそれを示すための「れう(料)」つまり方便であるということです。
 他力と聞きますと、われらの頭は「そうか、誰かの力がはたらいているのか」というように動き、いったいそれは誰なのかと詮索することになりますが、それは「わがはからい」ではないということを言っているだけです。われらが仏にならんと願い、よろづの有情を仏になさんと願うのだと思い込んでいたが、あにはからんや、それよりもずっと前からそのように願われていたことにふと気づく。そのような願いがわれらの生まれるよりはるか前からわれら生きとし生けるものみなにかけられていたからこそ、われらがそのように願うのだと気づくのです。
 さて、願作仏心も度衆生心もわれらの願いであるとしますと、大乗の菩薩としては「願作仏心は、そこにとどまることなく、度衆生心とならなければならない」とするのが当然の心構えであると言わなければなりません。しかし、願作仏心も度衆生心も、われらの願いである前に、生きとし生けるものみなにかけられている願いであるとするとどうでしょう。そこではもう願作仏心と度衆生心はひとつではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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