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親鸞最晩年の和讃を読む(その26) ブログトップ

再び、第17願と第18願 [親鸞最晩年の和讃を読む(その26)]

(10)再び、第17願と第18願

 たとえば法然と親鸞。法然としては、人を教え導き、救ってあげようなどと思い上がった気持ちがあったわけではないでしょう。ただ、本願に遇うことができ、「ほとけのいのち」に生かされていることを慶んでいるだけで、その慶びを人に語らずにおられなかっただけでしょう。ところがそれが親鸞を救った。法然の救われる相が、そのままで親鸞を救う相となったのです。「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひと(法然)の仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」(歎異抄、第2章)ということばは、その消息をよく伝えてくれます。
 この往相がそのまま還相であるという関係は、第17願と第18願の関係がそこに反映されていると見ることができます。
 前に見ましたように(第1回、3)、第17願と第18願は一体のものとして捉えなければなりません(現に『平等覚経』や『大阿弥陀経』のような古層の二十四願経においては、四十八願経の『大経』や『如来会』の第17願と第18願がひとつの願になっています)。すなわち、第17願で諸仏が弥陀をほめたたえてその名号を称えることにより、第18願で十方衆生がその名号を聞き至心に信楽することができるのです。諸仏の称名がわれらの聞名(すなわち信心)となるということです。そしてその聞名はおのづから乃至十念(すなわち念仏)としてほとばしり出ることになります。
 経にはそこまでしか書いていませんが、この第17願と第18願の繋がりは一度切りで終わるわけではないでしょう。つまり諸仏の称名がわれらの聞名となり、そしてわれらの聞名はおのづから称名になる、以上おしまいということはありません。われらの称名はまた他の誰かの聞名となっていくはずです。われらとしては、名号が聞こえてきたことを慶び、それに呼応してこだまのように名号を称えるだけですが、その声がまた他のどなたかに伝えられ、そこに聞名=信心が生まれていくことになります。「南無阿弥陀仏(帰っておいで)」と聞こえて、思わず「南無阿弥陀仏(はい、ただいま)」と応えているだけなのに(往相)、それがそのまま誰かに救いになっているのです(還相)。

                (第3回 完)

タグ:親鸞を読む
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