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親鸞最晩年の和讃を読む(その31) ブログトップ

永遠といま [親鸞最晩年の和讃を読む(その31)]

(5)永遠といま

 「弥陀はわれらを摂取して捨てたまわず」と言うか、「われらは弥陀に摂取され捨てられず」と言うか。能動態で言うか、受動態で言うかの違いだけで、言っている中身は同じです。しかし、同じことをどこから言うかという点で両者は天と地ほど違います。前者は弥陀と同じところに立って語っているのに対して、後者はわれらのいるところから語っています。弥陀のところに身をおいて語るということは、経典を背景として語ることに他なりません。経典に身を隠して語ると言った方がいいかもしれません。「どうしてそんなことが言えるのか」と問われたときに、すぐさま「経典にそう書いてある」と答えられるように。これをドグマティズムと言いますが、ぼくは蓮如にドグマティズムを感じるのです。
 親鸞はどうかと言いますと、決然と「わたしは」と言います。「親鸞におきては、ただ念仏して、弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて、信ずるほかに別の子細なきなり」(『歎異抄』第2章)、「親鸞は父母の孝養のためとて、一返にても念仏申したること、いまだ候はず」(同、第5章)、「親鸞は弟子一人ももたず候ふ」(同、第6章)などなど。このように彼は「弥陀は」と語らず、「わたし親鸞は」と語りますが、「わたし親鸞」がいる「いま、ここ」の地点からものを言うところに親鸞の類いまれな魅力があるのではないでしょうか。
 この違いの本質は何か。
 弥陀を主語として語るのは「永遠の相の下」に語るということであり、「わたし」を主語として語るのは「いま、ここ」から語るということです。スピノザが言いますように、真理は永遠の相の下にありますから、永遠の相の下に語るということは、自分が永遠の相に入り、真理をわがものとして語るということです。自分を永遠の相の下にある真理をゲットしたものとして語るということです。さて問題は、われらは永遠の相に入ることができるのか、永遠の相の下にある真理をわがものとできるのかという点にあります。また同じところに戻ってきたようです。自力と他力の関係をどう捉えたらいいのかというところです。

タグ:親鸞を読む
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