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弥勒とおなじ [親鸞最晩年の和讃を読む(その33)]

(7)弥勒とおなじ

 もう一首読みましょう。

 五十六億七千万
  弥勒菩薩2はとしをへん
  まことの信心うるひとは
  このたびさとりをひらくべし(26)

 注1 釈迦入滅から弥勒菩薩が釈迦に次ぐ仏となるまでの年数。
 注2 阿難とともに『大経』の対告衆(たいごうしゅ、釈迦の説法の相手)として登場する。今の一生を終えたあと仏となる一生補処の菩薩として、兜率天にいるとされる。

 真実信心の人は等正覚の位にいますから「仏とひとし」とされるとともに、次の生でかならず悟りをひらき仏となるということから、その位は「弥勒とおなじ」とされ、「便同弥勒(すなはち弥勒と同じ)」あるいは「次如弥勒(次いで弥勒のごとし)」と言われます。まだ仏の悟りをひらいていませんから「仏とおなじ」とは言えず「仏とひとし」ですが、次の生でかならず仏の悟りをひらくということでは「弥勒とおなじ」であるというように、「ひとし」と「おなじ」がきっちり使い分けられています。
 「かならず仏の悟りをひらく」ことが「〈このたび〉さとりをひらくべし」と表現されていることに注目したいと思います。
 「このたび結婚することになりました」という便りが届くことがありますが、「このたび」ということばの中に、「〈もうすぐ〉結婚します」という意味と「結婚することが〈もうすでに〉決まりました」という意味とが含まれています。そして「結婚することを〈いま〉報告します」ということです。つまり「このたび」のなかに未来と過去と現在とがひとつになっています。いや、「このたび」という現在のなかに「もうすぐ」という未来と「もうすでに」という過去が含まれているというべきでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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