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このたびさとりをひらくべし [親鸞最晩年の和讃を読む(その34)]

(8)このたびさとりをひらくべし

 同じように、「このたびさとりをひらくべし」というなかには、「〈もうすぐ〉さとりをひらく」ことと、「さとりをひらくことが〈もうすでに〉決まっている」こと、そして「そのことが〈いま〉明らかになった」ことが入っています。「いま」という現在には「もうすぐ」という未来と「もうすでに」という過去が含まれているということ、ここには「まことの信心うる」時の不思議があります。「弥陀の誓願不思議にたすけられまゐらせて、往生をばとぐるなりと信じて念仏申さんとおもひたつこころのをこる」(『歎異抄』第1章)その時に思いをはせてみましょう。
 それは「わがいのち」に囚われている事実に否応なく気づかされる時でした。これまでまったく気づいていなかった囚われの事実に気づくことは、「もうすでに」その囚われから抜け出ていることです。あゝ、「わがいのち」に囚われていたのか、と気づいた時には、もうその囚われから抜けています。しかし、だからといって「わがいのち」への囚われからすっきりと抜け出たわけではありません。依然として「これは“わがいのち”だ」と執着しています。囚われに気づきながら、したがってそれから一応は抜け出ていながら、しかし依然として囚われているのです。しかし、もう囚われから片足は抜けているのですから、「もうすぐ」両足とも抜け出ることは確かです。
 このように、「わがいのち」に囚われている事実に気づかされた「いま」の中に、「もうすでに」囚われから抜けていることと、「もうすぐ」囚われからすっきり抜け出ることの両方が含まれています。「もうすでに」だけでしたら、永遠の相(他力の相)に入り込んでしまうことになりますし、反対に「もうすぐ」だけでしたら、いつまでも時間の相(自力の相)にとどまることになります。信心の「いま」の中には、「もうすでに」囚われから抜けていることと、「もうすぐ」囚われからすっきり解脱することが含まれています。だからこそ、あくまでも時間の相にいながら、一瞬、永遠の相を垣間見ることができるのであり、それが「正覚にひとしい(等正覚)」ということ、あるいは「仏とひとし」ということです。

                (第4回 完)

タグ:親鸞を読む
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