SSブログ
親鸞最晩年の和讃を読む(その35) ブログトップ

信心の智慧 [親鸞最晩年の和讃を読む(その35)]

            第5回 無明長夜の灯炬

(1)信心の智慧

 次の和讃で信心は智慧であると詠われます。

 釈迦・弥陀の慈悲よりぞ
  願作仏心はえしめたる
  信心の智慧1にいりてこそ
  仏恩報ずる身とはなれ(34)

 智慧の念仏2うることは
  法蔵願力のなせるなり
  信心の智慧なかりせば
  いかでか涅槃をさとらまし(35)

 注1 左訓に「弥陀のちかひは智慧にてましますゆゑに、信ずるこころの出でくるは智慧のおこるとしるべし」とある。
 注2 左訓に「弥陀のちかひをもつて仏になるゆゑに、智慧の念仏とまうすなり」とある。

 これまで信心とは「気づき」であると語ってきました、本願を信じるとは本願に気づくことであると。ここでは信心は「智慧」であるとされ、そしてそれは「釈迦・弥陀の慈悲」により与えられたのであり、「法蔵願力のなせるなり」と詠われます。さて信心は釈迦・弥陀から賜る智慧であるとはどういうことか、それは「気づき」とどう関係するのかをじっくり考えてみたいと思います。
 信心は智慧であり、それは釈迦・弥陀から賜るものであると言われますと、無知であるわれらに何か特別な智慧が与えられるようなイメージですが、こうしたイメージは百害あって一利なしです。よく「智慧を授ける」とか、「智慧をつける」と言います。これは智慧のある人がない人にその智慧を伝授するということですが、信心を賜るというのは、そういうことではありません。信心とはむしろ、これまでの心の濁りがすっきり澄み渡ること(プラサーダ)です。信心とは何かがプラスされることではなく、むしろマイナスされることです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞最晩年の和讃を読む(その35) ブログトップ