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どこから、という問い [親鸞最晩年の和讃を読む(その36)]

(2)どこから、という問い

 信心とは「心の濁りが澄むこと」であるということを、これまでは「われへの囚われに気づくこと」として語ってきました。心の濁りとは「われへの囚われ」であり、心の濁りが澄むというのは、その囚われに気づくことに他ならないと。これで言いますと、信心の智慧を授かるというのは、心の囚われに気づかせてもらうということになります。心の囚われは、それにみずから気づくことはできず(自分では囚われているとは思っていないのですから)、外から気づかせてもらうしかありません。その意味で、気づき(すなわち信心)は授かるものです。これは他力の信心を的確に語っていると言えますが、ただ、「気づきを授かる」と言い、「気づかせてもらう」と言いますと、「どこから?」という厄介な問いに苦しめられることになります。
 浄土の教えは、それに対して「法蔵の誓願」という答えを用意しています。気づかせてもらうのは「法蔵願力のなせるなり」です。気づきを授かった現場から言えば、もうそれで十分で、それ以上「沙汰すべきにはあらざるなり」(『末燈鈔』第5通、自然法爾章)ですが、まだ気づきを授かっていない人としては、さらに「法蔵の誓願とは何か」、「法蔵願力はどこにあるのか」という疑問が出てくるのは必然です。ここには気づきの前とその後という問題があります。囚われに気づくということは、これまでの世界が一瞬スパッと切断されることであり、写真のポジが瞬間的にネガに反転するようなものです。あるいは時間の中にふいっと永遠が姿をあらわすようなもので、それを経験したか、まだしていないかで天と地の差があります。
 で、まだ経験していない人から「法蔵の誓願とは何か」という問いを受けたとき、「いや、それは経験してみないと分かりません」と突き放すこともできるでしょうが、その問いかけが真剣なものだとしますと、その人には心に何か求めるものがあり、何とかして分かろうとしているのですから、コミュニケーションを閉ざすようなことはするべきではないでしょう。さてでは「どこから?」という問いにどう答えればいいでしょうか。ぼくの次なる手はプラトンのアナムネーシス(想起)というアイデアを借りることです。

タグ:親鸞を読む
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