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アナムネーシス [親鸞最晩年の和讃を読む(その37)]

(3)アナムネーシス

 プラトンは、これまで知らなかったことを新しく知るというのはどういうことかを問題にします。これまでまったく知らなかったことを「あゝ、そうか」と新たに知るというのは、考えてみると不思議なことです。これまでまったく知らなかったのに、どうして「これが真実だ」と判断できるのか、という疑問です。それについてすでに知っているからこそ、真であるか偽であるかの判断ができるのではないでしょうか。しかし、すでに知っているなら、あらためて知ることはないわけで、いずれにしても何かを新しく知ることではないじゃないかと問うのです。
 プラトンはこんなふうにも言います。われらは美しいものを見て、「あゝ、美しい」と感嘆しますが、これまで生きてきたなかで、誰かから「美しいとはこういうことで、醜いとはこういうことだよ」と教えられた覚えはありません。にもかかわらず、みな同じように美しいものを美しいと言い、醜いものを醜いと言うのはどういうわけか、と。もちろん美醜の判断は人によって差はあるでしょうが、でも美しい花はたいがいの人が美しいと判断し、美しい人を見ますと、よほど変わり者でない限り「あゝ、美しい人だ」とため息をつくでしょう。これはいったいどういうことだろうとプラトンは問うのです。
 真を真と判断し、美を美と判断するのはどういうわけか。プラトンはこう答えます、それは、われらは生まれる前から知っているからである、と。
 われらはもともと真を真と知り、美を美と知っているのだが、この世に生まれてくるときに、それをすべてすっかり忘れてしまうのだというのです。すべての記憶が消し去られ、忘れてしまったこと自体を忘れてしまう。ところがこの世を生きている間に、あるきっかけで、記憶が蘇ることがある。たとえば目の前に突然美しい人が現れると、もともともっていた美のイデア(英語ではアイデア)が蘇り、「あゝ、美しい人だ」というため息となるというのです。これをプラトンはアナムネーシス(想起)と言い、われらが真を真と知り、美を美と知ることができるのは、このアナムネーシスによるのだと説明してくれます。
 いかがでしょう、神話的な説明ですが、真や美についての一面を見事に言い当てているのではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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