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無明長夜の灯炬 [親鸞最晩年の和讃を読む(その39)]

(5)無明長夜の灯炬

 智慧を賜るというのは、光に照らされるということです。次の和讃はそれを詠います。

 無明長夜(むみょうじょうや)の灯炬(とうこ)なり
  智眼(ちげん)2くらしとかなしむな
  生死大海の船筏(せんばつ)3なり
  罪障おもしとなげかざれ(36)

 注1 左訓に「常のともしびを弥陀の本願にたとへまうすなり。常のともしびを灯といふ。大きなるともしびを炬といふ」とある。
 注2 智慧の眼。肉眼に対して言う。
 注3 左訓に「弥陀の願をふね、いかだにたとへたるなり」とある。

 この和讃のもとは聖覚(親鸞にとって法然門下の兄弟子で、『唯信鈔』の著者)の文で、こうあります、「まことに知りぬ、無明長夜の大いなる灯炬なり、なんぞ智眼のくらきことを悲しまん。生死大海の大いなる船筏なり、あに業障(ごっしょう)の重きを煩はんや」(この文は親鸞の『尊号真像銘文』で解説されています)。弥陀の本願を「無明長夜の灯炬」と「生死大海の船筏」に譬え、それが存在する以上は、「智眼くらしとかなしむな」と言い、「罪障おもしとなげかざれ」と言います。どんなに愚かな身であろうとも、どんなに罪深い身であろうとも、そのまま生きていくことが肯定されていると。
 「無明長夜の灯炬」という表現について考えてみましょう。
 「無明長夜」と「灯炬」とは互いに他を否定しあうように思えます。「無明長夜」であるということは、そこに「灯炬」はないということで、「灯炬」があれば、もはや「無明長夜」ではなくなる、というように。ところが「無明長夜」でありつつ、そこに「灯炬」があるとされるところに浄土の教えのダイナミズムがあります。大いなる「灯炬」があっても「無明長夜」が消えるわけではなく「無明長夜」のままであるということ、いやむしろ大いなる「灯炬」があるからこそ、「無明長夜」が「無明長夜」であることが明らかになるという関係にあるのです。

タグ:親鸞を読む
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