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願力無窮にましませば [親鸞最晩年の和讃を読む(その42)]

(8)願力無窮にましませば

 もう一首、同じく聖覚の文をもとに詠われた和讃です。

 願力無窮(むぐう)1にましませば
  罪業深重もおもからず
  仏智無辺にましませば
  散乱放逸2もすてられず(37)

 注1 弥陀の本願力には限りがないこと。
 注2 左訓に「散り乱る、ほしきままのこころといふ」とあり、また「われらが心の散り乱れて悪きをきらはず、浄土にまゐるべしとしるべしとなり」とある。

 このうたは聖覚の『唯信鈔』の文、「仏力無窮なり、罪障深重のみをおもしとせず。仏智無辺なり、散乱放逸のものおもすつることなし」がもとになっています。ひとつ前の和讃で、無明長夜の灯炬があるのだから、愚かであると嘆かなくていい、生死大海の船筏があるのだから、罪深いと悲しまなくていい、と詠われていましたが、この和讃も、本願力には限りがないから、どれほど罪深くても救ってくださる、仏智には辺りがないから、どんなに放逸であっても往生できると詠い、まったく同趣旨です。
 このような説き方は浄土の教えにとってごく普通であり、親鸞もたとえばこんなふうに言います、「弥陀の本願には、老少・善悪のひとをえらばれず、ただ信心を要とするとしるべし。そのゆゑは、罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけんがための願にまします」(『歎異抄』第1章)と。罪悪深重・煩悩熾盛の衆生をたすけてくださる本願があるのだから、もう何も心配することはないという説き方で、われらに深い安心を与えてくれると言えますが、ただどこか独断的な匂いがしないでしょうか。
 前に「弥陀がわれらを摂取不捨してくださる」という説き方と、「われらは弥陀に摂取不捨していただける」という語り方の違いを話題にしましたが(第4回、4)、ここで再び同じ問題と対面しています。

タグ:親鸞を読む
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