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親鸞最晩年の和讃を読む(その44) ブログトップ

自身は現にこれ [親鸞最晩年の和讃を読む(その44)]

(10)自身は現にこれ

 まず法の深信が出され、「本願は云々」、「仏智は云々」と言われますと、何か独断的な響きがしないでしょうか。とりわけ、本願に遇うという経験、仏智に気づくという経験をしていない人にとって、いきなり「本願は」とか「仏智は」と言われますと、自分の住んでいる世界の外からものを言われているように感じられ、「どういう資格でそのようなことが言えるのか」と不審を抱かせてしまうでしょう。「あなたは何さま?」と言いたくなるのが自然です。
 一般に宗教に対する不信感はここからきているように思われます。ぼくも若い頃はご同様に「宗教はどうも」と敬遠していましたが、そんな中で親鸞という人は「ちょっと違うぞ」という感じを持ったのが『歎異抄』を読んだときでした。『歎異抄』の親鸞は、もちろん「弥陀の本願は」という語り方もしますが、それよりも強く印象に残るのが「親鸞は」という語り口です。わたし親鸞としましては、「念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり」(第2章)などということばに接しますと、「あゝ、この人の言うことには真実があるぞ」と感じられたものです。
 法の深信は「阿弥陀仏の四十八願は」と語り出しますが、機の深信は「自身は現にこれ」と自分を主語として語ります。もちろん「自身は現にこれ」と自分のことを語れるのは、そこに法の深信があるからですが、そのように機の深信を先に語ることで、法の深信を先に語る場合とは違う味わいが出てきます。たとえば法の深信を先に語る第37首の場合、「願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず」というように、本願力がある以上は、どれほど罪業深重「であろうとも」救われると詠われます。ところが機の深信を先に語るとどうなるかといいますと、こんなにも罪悪深重「であるからこそ」救われるという語り方になります。
 その最たる例が「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」です。これは「煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからず」という機の深信からスタートし、そこから、そんなわれらを「あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のため」という法の深信が出てくるのです。したがって悪人「であろうとも」救われるのではありません、悪人「であるからこそ」救われるのです。

                (第5回 完)

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