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真実報土の正因 [親鸞最晩年の和讃を読む(その45)]

             第6回 信心と往生

(1)真実報土の正因

 往生の正因について詠われます。

 真実報土の正因1を
  二尊2のみことにたまはりて
  正定聚3に住すれば
  かならず滅度4をさとるなり(43)

 注1 本願の信心のこと。
 注2 釈迦と弥陀。
 注3 かならず仏となる身。
 注4 左訓に「大般涅槃なり」とある。

 この和讃には浄土真宗の基本が凝縮されています。まず往生浄土の因は信心であり(信心為本)、それは釈迦・弥陀から賜るものであるとされます(賜りたる信心)。そして信心を賜ったそのときに正定聚、すなわちかならず仏になることが定まった位につくと詠われます(現生正定聚)。まさにそろい踏みで、真宗のすべてがここに尽くされていると言ってもいいと思いますが、だからこそ余計に注意深く味わう必要があります。
 ここでじっくり考えてみたいのは「真実報土の正因」ということばです。往生浄土の因は信心であるとするのが親鸞浄土教の眼目ですが、この「因」ということばよほどの注意が必要です。ぼくらは往生の因と聞きますと、ただちに日常的につかっている原因ということばで理解し、往生するための原因と了解します。たとえば医者は、塩分の取りすぎが高血圧の原因のひとつだから、血圧を下げようと思ったら塩分を控えめにしなければならないと言いますが、そのように、往生の原因は信心だから、往生しようと思ったら信心しなければならないというように理解します。
 親鸞が往生浄土の因は信心であるというとき、この意味ではないことは明らかです。信心は往生するためにわれらがしなければならないことではありません。信心とは本願にわれらがつけ加えなければならない何ものかではなく、本願がわれらのもとにやってくることです。

タグ:親鸞を読む
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