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縁起の法 [親鸞最晩年の和讃を読む(その47)]

(3)縁起の法

 ヒュームの思索をもとにして考えますと、因果概念の本質はAという現象とBという現象が「継起」するという点にあります。まずAが起り、それに継いでBが起るということ、したがってAとBの間には多少とも時間の経過があるということです。どうしてそれが因果概念の本質かといいますと、もし原因と結果の間に時間の経過がなければ(それが同時ならば)、近代科学が因果法則を見いだそうとすることに意味がなくなってしまうからです。ヒュームが言っていますように、われらに原因・結果という思考の「くせ」がついたのは、未来を予測しようという動機があるからで、もし原因と結果が同時ならば、未来の予測は不可能です。
 さてでは釈迦の縁起の法はどうか。「これあればかれあり」というのは、これが原因となって、のちにかれという結果を生むということでしょうか。そうではないということをきちんと言ってくれたのが龍樹です。『中論』第1章の第1偈に「もろもろの事物はどこにあっても、いかなるものでも、自体からも、他のものからも、(自他の)二つからも、また無因から生じたもの(無因生)も、あることなし」とあります。要するに龍樹は「~から生ずる」ということを否定しているのです。したがって、「これあればかれあり」と釈迦が言うのは「これからかれが生ずる」ということではないということになります。ではどういうことかといいますと、「これあるに縁ってかれがある」ということ、「これとかれとは切り離しがたく結びついている」ということです。
 継起と縁起はまったく別です。
 さて「往生浄土の因は信心である」ということですが、これは「信心から往生が生じる」ということではなく、「信心に縁って往生がある」ということ、信心と往生はひとつであるということです。もし「信心から往生が生じる」としますと、まずもってわれらの信心があり、そこから往生が生まれるということで、逆に言いますと、往生しようと思ったら信心しなければならないということになります。しかし「信心に縁って往生がある」のでしたら、信心のあるところにすでに往生があり、往生のあるところにすでに信心があって、両者はひとつであるということです。

タグ:親鸞を読む
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