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切符を手に入れる [親鸞最晩年の和讃を読む(その51)]

(7)切符を手に入れる

 親鸞が本願成就文に『大経』の眼目があると見たことは前に述べました。彼は「かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生をう」ということばをよりどころに、信心のそのとき、現生で正定聚となり、つまり往生すると確信したのです。念のためもう一度『一念多念文意』の解説を見ますと、「をさめとりたまふとき、すなはち、とき・日をもへだてず、正定聚の位につき定まるを往生を得とはのたまへるなり」とあります。
 これは、信心のそのとき正定聚となることが、取りも直さず往生を得ることだと言っているのですが、この順序を反対にしますと、経に「すなはち往生をう」と書いてあるのは、実は正定聚となるという意味なのだと理解することもできます。こうすることで「即得往生」の衝撃が弱まるのです。文字通りに、信心のそのとき往生するというのではなく、ただ正定聚になることを手短に往生すると言っているだけなのだ、というわけです。
 正定聚とは「将来かならず仏になることに定まった位」のことですが、これをあえて「将来かならず往生することが定まった位」と置き換え、浄土行きの乗船切符が手に入ることであると理解するのです。この理解は浄土真宗の中にかなり広くゆきわたっているように感じられます。浄土行きの船は臨終のときに出るが、その切符は信心をえたそのときに手に入るのだから、もう安心ではないかというわけです。こう理解することで、信心という「因」により往生という「果」を得るという常識はまっとうされますし、同時に、現生正定聚という浄土真宗の眼目を外すこともありません。
 何を隠そう、ぼく自身、長い間そのように理解してきました。そのとき、ぼくのなかで仏になることと往生することは同じ意味でした。浄土に往生することが仏になることだと思い込んでいたのです(その迷妄をうち破ってくれたのが曽我量深氏でした)。「往生すなわち成仏」でしたら、今生で信心をえても、それで成仏するというわけにはいきませんから、必然的に往生も来生となります。としますと今生では往生(すなわち成仏)の約束が得られるだけであり、つまりは浄土行きの乗船切符を得るだけということになります。ぼくは長い間この切符説の迷妄のなかにありました。

タグ:親鸞を読む
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