SSブログ
親鸞最晩年の和讃を読む(その52) ブログトップ

握りしめる [親鸞最晩年の和讃を読む(その52)]

(8)握りしめる

 さてでは切符説の迷妄はどこにあるでしょうか。信心という因により往生という果を得るという図式が貫かれているということ、そして、そのさらに根本に信心も往生も「こちらから」手に入れるものという発想があるということです。前に確認しましたように、Aという因がBという果を生むと見るのは、その元に、Bを得るためにはどうすればいいかという目的意識があり、Aのあとには必ずBが生じるから、Bを得るためにはAを得ることが必要であるという計算をしているということです。しかし信心も往生もこちらから手に入れるものではなく、気がついたらむこうから与えられているものです。信心の門は(そして往生の門も)、それを前に見て「よし、入ろう」として入るものではなく、気がついたらその門はすでに後ろにあり、もうすでに入ってしまっているのです。
 切符説の迷妄は具体的には次のような形で明らかになります。切符を手に入れる(正定聚となる)ことと実際に乗船する(往生する)ことの間には、長短の差はあれ時間の経過があります。めでたく切符を手に入れたのはいいが、実際に船に乗るのは先のことですから、そのあいだ折角手に入った切符を失くさないよう気を張っていなければなりません。どこかに紛失したり、誰かに奪われでもしたら大変ですから、しっかり握りしめていなければなりません。
 聖覚の『唯信鈔』にこんな譬え話がでてきます。ある旅人が高い崖に行く手を阻まれ途方に暮れていたとき、崖の上からスルスルと綱が下ろされ、「この綱につかまりなさい、かならず引き上げてあげましょう」という声がかかったというのです。さてその声を信じていいものか迷ったとしても、それ以外に崖の上に出られそうもありませんから、頼みの綱につかまったとしましょう。しかしそれだけではダメです。引き上げられる間ずっと綱をしっかり握りしめていなければなりません。途中でちょっとでも気が緩んだり、疑いが生まれたりして手を放しでもしたらすべてが水の泡です。
 綱を(いまの場合は切符を)しっかり握りしめる―これが本願を信じ正定聚となった人の姿なのでしょうか。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞最晩年の和讃を読む(その52) ブログトップ