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欣(ねが)へばすなはち浄土につねに居(こ)す [親鸞最晩年の和讃を読む(その53)]

(9)欣(ねが)へばすなはち浄土につねに居(こ)す

 善導の『般舟讃(はんじゅさん)』にこんなことばがあります、「厭へばすなはち娑婆永く隔つ、欣へばすなはち浄土につねに居す」と。娑婆を厭う気持ちが起ったとき、もうすでに娑婆から離れ、浄土を欣う気持ちが起ったとき、もうすでに浄土に居るというのです。親鸞はこれが信心の人、正定聚の姿である読みました。娑婆を厭うから(娑婆を厭うことが因となり)、娑婆を離れるのではありません。浄土を欣うから(浄土を欣うことが因となり)、浄土に居ることになるのではありません。娑婆を厭うことが、そのまま娑婆を離れることであり、浄土を欣うことが、そのまま浄土に居ることです。
 これまで本願成就文「かの国に生ぜんと願ぜば、すなはち往生をう」の「すなはち」は、常識的に「そのときただちに」という意味だと理解してきました。しかし、ここまできまして、この「すなはち」は、もはや時間の「すなはち」ではなく、時間を超えた「すなはち」と理解しなければなりません。これが時間の「すなはち」でしたら、往生を願うそのときに往生するというのは、どこまでも不条理でしかありません。まず往生を願い、そしてそのために必要とされることを尽くして、その上で願いがかなえられるものです。時間の中の出来事はおのずから因果の関係のなかにありますから、因と果の間に、たとえどれほど短くとも、時間の経過があります。
 さてしかし、この「すなはち」が時間の「すなはち」ではないとしたら、どういう意味でしょう。先ほど、善導の「欣へばすなはち浄土につねに居す」は、「浄土を欣うから(それが因となって)、浄土に居ることになる」ではなく、「浄土を欣うことが、そのままで浄土に居ることである」という意味だと言いました。この「そのままで」が「すなはち」の意味です。浄土を欣うということは、ここが娑婆であることに気づいているということであり、そして娑婆に気づいているということは、「われ」に囚われることで渇愛に苦しんでいると気づいているということです。さらに、「われ」への囚われに気づくことは、そのままで「われ」への囚われから片足抜け出しているということであり、もう浄土に居るにひとしいということです。

                (第6回 完)

タグ:親鸞を読む
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