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二種回向 [親鸞最晩年の和讃を読む(その54)]

            第7回 如来大悲の恩徳は

(1)二種回向

 これまでもしばしば往相回向と還相回向について言及されてきましたが、ここであらためて二種回向の関係が詠われます。

 南無阿弥陀仏の回向の
  恩徳広大不思議にて
  往相回向の利益には
  還相回向に回入せり(51)

 まず信心は弥陀の回向であるということ、これを何度でも確認しておきましょう。本願を信じるとは、本願に気づくことですが、この気づきは確かに「わたし」に起るものの、「わたし」が起こすことはできません。どうしてか。本願に気づくということは、我執に気づくことに他なりません。本願に遇うということ(法の深信)は、おのれの我執に遇うこと(機の深信)です。それを明らかにしてくれた善導にはどれほど感謝してもしすぎることはありません。
 さて、我執に気づくとは、「われ」に囚われていることに気づくことですが、この気づきを「わたし」が起こすことはできません。心が何かに囚われているということは、それに気づいていないということですが(それに気づいたときには、もう囚われていません)、自分では囚われていないと思っているのですから、それを「わたし」が気づこうとするはずがなく、したがって「わたし」が気づくことはありません。それは「わたし」以外の誰かから気づかせてもらうしかありません。
 それは「われ」に囚われていない存在、すなわち仏からでしかありません。このように我執に気づく(遇う)ことを通して、仏に気づく(遇う)ことになりますが、仏に気づくことは仏の本願に気づくことに他なりませんから、我執に気づくことは取りも直さず本願に気づくことです。かくしてわれらは本願に気づかせてもらうことになるのです。本願の気づきは「わたし」に起りますが、「わたし」が起こすことはできず、本願自身から気づかせてもらうしかありません。本願他力に気づくことができるのは本願他力のお蔭であるのは当然のことです。
 これが「往相回向の利益」ということです。

タグ:親鸞を読む
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