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往相回向がそのまま還相回向 [親鸞最晩年の和讃を読む(その55)]

(2)往相回向がそのまま還相回向

 さて問題は「往相回向の利益」がそのまま「還相回向の利益」でもあるということ、これです。「わたし」が救われることが、そのまま他の人たちが救われることになっているというのは一体どういうことか。これを「縁起の法」をもとに考えてみたいと思います。
 縁起とは「これあるに縁りてかれあり、これ生ずるに縁りてかれ生ず。これなきに縁りてかれなく、これ滅するに縁りてかれ滅す」と定式化されますが、その際「これあるに縁りてかれあり」は同時に「かれあるに縁りてこれあり」であることを忘れてはなりません。要するに、あらゆることは双方向に縦横無尽に繋がりあっており、その繋がり(縁)から切り離されて、それだけで単独に存在するものは何ひとつないということです。言われてみますと、あまりにも当たり前のことのようですが、どっこい、われらは少なくともひとつだけは例外扱いしています。それが「わたし」で、「わたし」だけは、他との繋がり(縁)とは関係なく、それだけで存在していると思っています。「われ思う、故にわれあり」とは、その宣言です。これまで「われ」への囚われと言ってきたのはそのことです。
 さて、「わたし」があるとき本願に気づかされて救われた、この事象もまたそれだけで単独に存在することはありません。他の無数の事象との縦横無尽の繋がりのなかにあり、そのなかには他の人たちが救われることも含まれています。「わたし」が救われることと繋がりつつ他の人たちが救われるのです。それを、「わたし」が救われることに縁り、他の人たちが救われると表現しますが、それは、「わたし」が救われることが因となって、「わたし」が他の人たちを救うということではありません。原因が結果を生むというのは原因につづいて結果が生まれるという一方的な継起ですが、縁起は継起ではありません。縁起は「これあるに縁りてかれあり」であると同時に「かれあるに縁りてこれあり」という双方向の繋がりです。
 さてしかし、どうして「わたし」が救われること(往相回向)と、他の人たちが救われること(還相回向)が双方向に繋がっているのでしょう。

タグ:親鸞を読む
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