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気づきの花が咲く [親鸞最晩年の和讃を読む(その56)]

(3)気づきの花が咲く

 もう一度、本願の気づきは「わたし」に起るが「わたし」が起こすのではないということに戻ります。
 本願に気づくことができるのは、本願自身の力によるということでした。他力とはそういうことで、他力を自力で気づこうとするほどひどい倒錯はありません。他力は他力で気づかせてもらうしかないのです。そのようにして本願他力に気づかされることが往相回向ですが、それは本願他力が「わたし」に届いたということです。いや、とうの昔から届いていたのですが、それにいま気づいたのです。「遇ひがたくしていま遇ふことをえた」のですが、それがそれだけのことであるはずがありません。「わたし」のこころに気づきの花が咲いたことは、他のどなたかのこころに気づきの花が咲いたことと繋がっているに違いありません。
 「わたし」のこころに気づきの花が咲いたことで、他のどなたかのこころにも同じ気づきの花が咲き、逆にまた、他のどなたかのこころに気づきの花が咲いたことで、「わたし」のこころにも同じ気づきの花が咲いた。ぼくの頭には無限の空に無数の星たちが明滅しているイメージが広がります。ある星が明るく光ったとき、時を同じくして、他の星が明るく光り、また別の星がピカッと光ると、同じ時に、他の星も光るというイメージです。そこにどのような繋がり(縁)があるのか知る由もありませんが、何か目に見えない力で結びついている。
 ここでもう一度、因果と縁起の違いに思いを致したい。われらがものごとに因果を見ようとすることには、未来を予測したいという動機が隠れていると教えてくれたのがヒュームでした。Aという原因があってBという結果が生まれるという法則を見つけるのは、そうすることで、いまAという事象が起っているから、将来Bという事象が起るに違いないと予測できるからだということです。このように因果にはきわめて実践的・実利的な狙いがありますが、一方、縁起はどうでしょう。われらがものごとに縁起を感じるとき、そんな狙いはまったくありません、ただただ思いがけない繋がり(縁)の不思議さに打たれているだけです。

タグ:親鸞を読む
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