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ふたたび往相と還相 [親鸞最晩年の和讃を読む(その58)]

(5)ふたたび往相と還相

 同じ趣旨の和讃がもう一首詠われます。

 往相回向の大慈1より
  還相回向の大悲2をう
  如来の回向なかりせば
  浄土の菩提はいかがせん(52)

 注1 弥陀の大慈悲を大慈と大悲に分けている。大慈は衆生を慈しんで楽を与えること。
 注2 大悲は衆生を憐れみ痛んで苦を抜くこと。

 先ほどは「往相回向の利益には 還相回向に回入せり」と詠われ、ここでは「往相回向の大慈より 還相回向の大悲をう」と詠われていますが、まったく同じ意味でしょう。往相も還相も弥陀の大慈悲心から回向されているのであるから、往相がそのまま還相であるということです。これまでは往相を先にして、往相がそのままで還相となっていると述べられてきました。しかし往相と還相は因果の関係ではなく縁起の関係としてひとつに繋がっているのですから、これを還相がそのままで往相となるという面から見ることもできます。そこで還相から往相を見ることにしましょう。
 先に上げました「源空が信心も、如来よりたまはりたる信心なり。善信房の信心も、如来よりたまはらせたまひたる信心なり。さればただ一つなり」で言いますと、これは法然が本願に救われることがそのままで親鸞が本願に救われることになっているということでした。それを今度は逆に、親鸞が本願に救われることは法然が本願に救われることとひとつであるという面から見ようというのです。法然から親鸞を見るか、親鸞から法然を見るかであって、同じことをただ逆に言っているだけですが、それによって見える風光はかなり違ったものとなってきます。
 親鸞から法然を見たとき、何が見えてくるでしょう。

タグ:親鸞を読む
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