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神と仏 [親鸞最晩年の和讃を読む(その60)]

(7)神と仏

 問題のありかはキリスト教やイスラム教などの一神教と対比してみることではっきりするでしょう。一神教においても、神や精霊から不思議な声が聞こえてきて、それに救われるというように説かれます。救いはこちらから手に入れることはできず、むこうから与えられるしかないという構図は同じです。ただ、その声がどこから聞こえてくるか。一神教において神はこの世界の外にいるでしょうから(神がこの世界を創造した以上、世界の中にいることはできません)、その声は世界の外からやってくることになります。一神教につきものの神秘性はこの「世界の外」ということから漂ってくるに違いありません。
 その点、仏教には「世界の外」はありません。世界は目の前に広がるこの世界だけで、それ以外に怪しげな背後世界は存在しません。
 そしてこの世界においては、あらゆるものが互いに縦横無尽に繋がりあっていて、それだけとして取り出せるものは何ひとつありません(無尽の繋がりの中からあるものをそれだけ取り出しますと、それはもう死んだものでしかありません、ちょうど人間のどんな臓器もそれを身体から取り出せば、ただちに壊死してしまうように)。この唯一の世界は縁起の世界であるということです。したがって南無阿弥陀仏(帰っておいで)の声が聞こえると言っても、どこか世界の外から聞こえるのではなく、この縁起の世界の中から聞こえるしかなく、縁起の世界の中からということは、縦横無尽の繋がりの中からということに他なりません。親鸞が南無阿弥陀仏の声を聞いたのは、法然聖人と出会い、その仰せを聞くなかのことです。
 しかし、親鸞が南無阿弥陀仏の声を直接聞いたのではなく、法然を通して聞いたのであり、法然もまた善導を通して聞き、そして善導は道綽からというようにどんどん遡及していきますと、ついには阿弥陀仏に行きつきます。そこで、阿弥陀仏とは何か、という疑問がうかびます。よく浄土教は一神教と似ていると言われますが、それは阿弥陀仏が一神教の神と似ていると思われるからでしょう。しかし、それは浄土教を知らない人のはなはだしい誤解であると言わなければなりません。

タグ:親鸞を読む
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