SSブログ
親鸞最晩年の和讃を読む(その61) ブログトップ

自然のやう(様)をしらせん料なり [親鸞最晩年の和讃を読む(その61)]

(8)自然のやう(様)をしらせん料なり

 阿弥陀仏はこの世界の外のどこかにいるわけではありません。経典によれば、浄土というのはここから十万億土のかなたにあるのだから、阿弥陀仏はこの娑婆世界の外にいるのではないかと言われるかもしれませんが、少なくとも親鸞はそのようなことを一度たりとも言うことはありません。どころか、こんな驚くべきことを言います、「弥陀仏は自然のやうをしらせん料なり」(『末燈鈔』5通)と。「自然のやう」とは、その前で親鸞が言っていることから「他力ということ」と理解することができますから、この文は「阿弥陀仏というのは、他力ということを分かりやすく言うための手立てである」ということです。
 他力とはここでは「南無阿弥陀仏はこちらから称える前に向こうから聞かせてもらうもの」ということです。親鸞は法然から聞かせてもらい、法然は善導から聞かせてもらい、さらに善導は道綽からというように。この「向こうから聞かせてもらう」ということはどこかで終了するわけではなく、どこまでもつづいていくものですが、それでは切りがありませんから、便宜上、阿弥陀仏からはじまるとして分かりやすくしているということです。この大胆なことばから、さらに思いを膨らませますと(親鸞から「この自然のことはつねに沙汰すべきにはあらざるなり」と叱られるかもしれませんが)、阿弥陀仏とは、あらゆるものが互いに縦横無尽に繋がりあっている縁起の世界そのものと言うこともできそうです。アミターバ(無量光)、アミターユス(無量寿)とはこの世界のことだと。
 これまで「わたしのいのち」と「ほとけのいのち」という言い方をしてきましたが、阿弥陀仏とは「ほとけのいのち」としてのこの世界そのものであり、「わたしのいのち」はこの世界のなかで生かされて生きているということです。そして故郷としての「ほとけのいのち」から「帰っておいで(南無阿弥陀仏)」と呼びかけられることで、「わたしのいのち」は安心して生きる場処を得ることができ、救われるのです。

タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞最晩年の和讃を読む(その61) ブログトップ