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罪福を信ずる [親鸞最晩年の和讃を読む(その64)]

(2)罪福を信ずる

 すでに本願に遇った人は「本願を疑う」ことはありません。では、まだ本願に遇っていない人はといいますと、「わたしは本願を疑っています」と言う人はまずいないのではないでしょうか(疑うほどに本願に関心を持つのは稀でしょう)。むしろ「わたしは本願を信じています」と言う人の方が多いだろうと思います。本願に遇ってはいないのだが、本願を信じる。ここには本願を信じておいた方がよさそうだという目論見があります。お経に書いてあるし、お坊さんもそう言うし、親からもそう教えられてきたのだから、まあ信じた方が無難だろうという計算。
 これが罪福を信ずるということです。善いことをすれば善い果がえられ、悪いことをすれば悪い果が待っている。だから、善いことをして、悪いことをしないようにしなければならない。本願を信じ念仏するのはおそらく善いことだから、それをすればきっといい結果(往生浄土)が待っているに違いないと信ずる、これが罪福を信ずるこころです。親鸞はこの罪福を信ずるこころこそ本願を疑うこころだと言うのです。自分では本願を信じているつもりだろうが、実は本願を無みしていると言うのです。ここはじっくり腰を落ち着けて熟慮しなければなりません。といいますのも、善因善果・悪因悪果の教え(あるいは因果応報の教え)こそ仏教ではないのか、という根深い思いが多くの人々の心に巣くっているからです。
 ここであらためて縁起の法について考えたいと思います。縁起の教えが、いつの間にか因果応報の教えにすり替わってしまったということを考えたいのです。
 縁起の法とは「これあるに縁りてかれあり、これ生ずるに縁りてかれ生ず」ということです。これは、あらゆるものは互いに縦横無尽に繋がり合うことにより成り立っていて、その繋がりから切り離されるともう何ものでもなくなる、ということです。分かりやすい例では、人間の臓器は他の臓器たちと複雑に繋がり合ってはたらいていますから、そこから切り離され、身体から取り出されますとたちまち壊死してしまうようなものです。ところが因果の法は、縦横無尽の繋がり(縁)のなかにあるものから、ある因とその果をそれぞれに切り取ってきて、これが因となってこの果を生み出すと考えるのです。このように、縁起の法は「繋がりの法」であるのに対して、因果の法は「分離の法」であるというように、まったく相反する原理です。

タグ:親鸞を読む
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