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仏智を疑う [親鸞最晩年の和讃を読む(その67)]

(5)仏智を疑

 つづく一首を読みましょう。

 仏智の不思議をうたがひて
  自力の称念このむゆゑ
  辺地懈慢(けまん)1にとどまりて
  仏恩報ずるこころなし(第61首)

 注1 なまけおごるという意味で、ここでは辺地と同じく方便化土の名。

 先には「罪福信じ善本をたのむ」とあり、ここでは「自力の称念このむ」となっていますがまったく同じ意味です。念仏することが善因となって往生という善果をえることができると信じるこころで念仏するということです。ここには往生をえようという目論見があり、そのために念仏しなければという計算があります。これが罪福を信じることであり、自力の称念ということです。これはものすごくよく分かります。それも道理で、上で見ましたように、われらは因果の時間の流れを世界のなかに持ち込むことで、混沌とした世界に秩序を与えているのですから、念仏が因で往生が果となるといわれるのはものすごく分かりやすいわけです。
 罪福を信ずるのはよく分かるのですが、分からないのが仏智を信ずるということです。いまの場合、仏智は本願と考えていいでしょうから、本願を信ずるということ、この浄土教の原点がよく分からないということです。釈迦は縁起の法と言いましたが、それを浄土教では本願の教えといいます。両者はまったく違う顔つきをしていますから、それがどうつながっているのかすぐには見えてきません。そこから浄土教などというのは仏教ではないという極論も出てくるのですが、それは浄土教というもの、本願の教えというものをよく知らない人の言うことです。
 縁起と本願は見えない根っ子でしっかりつながっていること、これをまずは確認しておきたいと思います。

タグ:親鸞を読む
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