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縁起と本願 [親鸞最晩年の和讃を読む(その68)]

(6)縁起と本願

 縁起と無我については、同じことを別の言い方をしているだけであるのは見やすいでしょう。縁起とは、あらゆるものごとはお互いに縦横無尽に繋がりあって存在しているということであり、そして無我とは、他との繋がりと関係なく、それだけとして存在している「われ」(これをアートマンと言います)はないということですから、同じことを肯定的に言っているか、否定的に言っているかの違いだけです。世界は混沌とした関係(繋がり、縁)の総体であるということです。
 ここまではいいのですが、さてでは本願はどうか、それは縁起や無我とどう結びつくのでしょう。
 本願とは、いまさら言うまでもないことですが、阿弥陀仏の願いということです。もとのサンスクリットは「プールヴァ・プラニダーナ」、つまり「前の願い」という意味で、阿弥陀仏が阿弥陀仏となる前、まだ法蔵菩薩として修行していたときに立てた誓願ということです。その要諦は「生きとし生けるものが、みな例外なく救われるまでは、わたしも救われることはない(若不生者、不取正覚)」ということです。これは何を意味するのかについて、親鸞はいわゆる「自然法爾章」(『末燈鈔』第5通)でこう教えてくれます、「弥陀仏は自然のやう(様)をしらせん料なり」と。
 ここで「自然」といいますのは、「行者のはからひ」ではなく「おのづからしからしむ」ということ、つまり「他力」を意味しますから、この文は、「弥陀の本願というのは、他力ということを知らせようとしているのだ」ということです。救いというものは「行者のはからひ(自力)」で得られるのではなく、他力によりはじめて得られるということ、これが弥陀の本願の意味だと言っているのです。ここから本願と縁起の見えないつながりがほの見えてきます。

タグ:親鸞を読む
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