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なぜ生きる [親鸞最晩年の和讃を読む(その70)]

(8)なぜ生きる

 若かりし頃を思い出します。高校生の頃のぼくは何か満たされない思いをかかえて生きていました。これといって不足するものがあったわけではありません、経済的な状況にも、家庭的な環境にも、学校内の人間関係においても何かが足りなかったということはありません。にもかかわらず、どういうわけか満たされない。勉強していても、友達と会話していても、なにか虚しいと感じていました。あるときは怪しげな宗教の勧誘について行ったこともありました、ヤバいと思い、すぐ引き返しましたが。あるときは虚しい受験勉強なんて打ち切って禅寺に入りたいと先生に相談したこともありました、性急すぎると諫められましたが。
 何が足りなかったのかといいますと、生きる意味です。「なぜ生きる」という問いに対する答えです。
 そのときぼくは日々の普通の生活圏にあるものとは違う何か、ことばでうまく言い表すことのできない何かがあることに気づいていたと思います。そうでなければ、あれほどまでの飢餓感を覚えるはずがありませんから。で、ぼくのとった道は、大学で哲学を学ぶというものでした。哲学はその何かを与えてくれるに違いないと期待してその道を歩みはじめたのですが、まもなく幻滅がやってきました。青春はせっかちです、ここにはぼくの求めるものがないと見切りをつけ、当時東京にあった「アリの街」という不思議な共同体をめざしたこともありました。
 ともかくぼくの青春は「なぜ生きる」という厄介な問いの答えを求めて右往左往することでした。カール・ブッセの詩(上田敏の名訳で有名になりました)に「山のあなたの空遠く、さいわい住むとひとの言う。あゝ、われひとと尋め行きて、涙さしぐみ帰りきぬ」というのがありますが、あの心境で生きていたわけです。さてしかしこの「なぜ生きる」という問いはきわめて特殊な問いです。われらの日々の普通の生活圏にある問いは「どう生きる」に関わるもので、それについては「われひとと尋め行きて」その答えを求めなければなりません。ところが「なぜ生きる」ばかりは、その答えを求めて進めば、その進んだ分だけ答えが遠のくという厄介な問いです。

タグ:親鸞を読む
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