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そのまま生きていていい [親鸞最晩年の和讃を読む(その71)]

(9)そのまま生きていていい

 「どう生きる」と「なぜ生きる」という二種類の問い。前者は、われらが生きんとするにあたり、われら自身が立てざるをえない問いですが、後者は、われらが問うには違いないのですが、それに先立ってどこかから問いかけられているように感じるのです、「おまえはなぜ生きるのか」と。われらが立てた問いにはわれらが何としてもその答えを探しださなければなりませんが、向こうから突き付けられた問いの場合は、「そんなことを言われても」という戸惑いが生まれます。しかし問いかけられた以上、そしてそんな問いがあることに気づいてしまったからには、その答えを見つけようとするのですが、どうにも答えが見つからず、「涙さしぐみ帰りきぬ」ということになります。
 「どう生きる」と問うとき、その「生きる」には「こうすればこうなる」、「ああすればああなる」というように細々と分け目が入れられています。で、さまざまな選択肢があるなかで「どうすれば」となるわけです。ところが「なぜ生きる」と問われるとき、その「生きる」には分け目がありません、生きることが丸ごと「なぜ」と問われるのです。「分けられる」ものは「分かります」が、「分けられない」ものは「分からない」。かくして「どう生きる」には答えを出すことができても、「なぜ生きる」は答えが「分からない」ということになります。
 ではどうすればいいのか。心配ご無用、その答えは向こうから与えられます。問いが向こうから突き付けられたように、その答えも向こうからやってくるのです。「なぜ生きる」は「おまえは生きていていいのか」という問いかけに他なりませんが、それに「そのまま生きていていい」という答えが与えられるのです。これが本願他力の答えです。本願他力はこちらから求めて得られるものではありません。そもそも他力を自力で得るということほどひどい倒錯はありません。自分が自分に「そのまま生きていていい」と百万回繰り返しても、腹が減るだけで何の足しにもなりません。向こうから「おまえはそのまま生きていていい」とひとこと言ってもらえるだけで満たされるのです。

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